蔵とその歴史 The Kura and Its History 蔵元の尾崎家、もとは東京神田の酒問屋でした。大正時代、栃木県湯津上村にあった酒蔵の経営がうまくいかなくなり、その面倒を見ざるを得ないことになった尾崎 商店は酒造部を設置、酒造りを手がけるようになりました。東京大空襲で神田が焼けてしまったのを機に湯津上村へ移り、酒造りが本業となりました。
天鷹命名 Origin of name Tentaka 初代蔵元が旅先の宿で、飛翔する鷹を夢に見たのがきっかけで「天鷹」の名が使われるようになりました。もとは 酒問屋ですから、最初はこの名前を、全国各地から集めた酒の中で一番気に入ったものにつけて出していました。その初代蔵元の口ぐせは「辛口でなければ酒ではない」。その想いを守り続けて八十年、甘口の酒は一度も造 ったことがなく、辛口男酒一本やり。県内産の酒米だけを原料に用い、古い発想にとらわれることなく、新たな味を造りだす挑戦も続けています。
手の感触 Refined Senses 年間生産量3500石。三代目蔵元の尾崎宗範氏は「うちのような小さい酒屋は、酒の質が絶対優先であることが大前提」「酒は、その時代時代の最先端技術を駆使し て作ってきたもの。何でもかんでも"昔ながらの手作り"というのは、設備投資と技術革新を怠っていることへの弁解でしかない」と断言する。けれども「手で、人間が判断 しなければならない部分は永久にある。手の感触を忘れたらものづくりはできない」とも主張する。自然に恵まれた湯津上村で、無理に醸造量を増やすことなく「いつも自分が飲んで旨い酒をつくることを心がけている」のです。
地元で愛される酒 Sake loved by locals 南部杜氏の直町昊悦氏が中心となり、那須山系の伏流水で仕込む酒の80パーセントは栃木県内で飲まれてい ます。寒冷な気候風土、天候は穏やか、たくさんの田んぼがあり、米がとれ、きれいな地下水が豊富にある――湯津上村という、酒造りにはもってこいの土地で「天鷹」は醸され、地元の人々に愛されているのです。 |